千翠流舞代表千翠珠煌のプロフィール

日本舞踊のこれから

2020年夏より、千翠流舞では広くメンバーを募集することになりました。

若い弟子たちがこれからも日舞で活躍していけるようにと考えた時、今までの様に日舞の師匠という選択肢しかないのでは先細りする一方と考えるからです。

今までの様に単なるお稽古事、というだけでは入門者はどんどん減るでしょう。

例えばゴルフで言えば、レッスンプロだけでなく、プロゴルファーという道もある、ということです。

例え一握りだとしても、ちゃんとそれを仕事とし、生活できる。そういう存在も無くてはいけないと思うのです。

千翠流舞もこれからの為に、一歩ずつ前進し、踊りを仕事としていけるように頑張っています。

まだまだ決して大きいグループではありませんが、少しずつ前進していける今こそ、メンバーを増やして向かっていきたいのです。

千翠流舞代表千翠珠煌の成り立ち

私たちはメンバーを増やしたいだけではなく、日本舞踊をたしなむ人が増えてほしい、あわよくばその中から素晴らしいダンサーが生まれて千翠流舞と言わず世界に飛び出し、新しい表現を生んで魅力的な日本舞踊をもっと広めてほしいとの希望があります。

ちょっと先走りました(笑)

そんな夢を抱く千翠珠煌ですが、代表の人となり、考えなりをお伝えしないとなかなか二の足を踏む方もいらっしゃるのではと思い、その成り立ち?をお話ししたいと思います。

スタートはアクションクラブ

幼少期からのことは千翠珠煌ブログにありますので、ご覧ください。

13歳から8年間アクションクラブにいました。

その間、合気道、少林寺拳法、居合道などを広く浅く学びました。

居合道はアクションクラブに高段者の先生が教えにいらしてくれました。

アクションだけだとわからない実践的なこと、例えば突きは「それでは人は突き刺せない」「こう突かないと刀が抜けなくなる」とか、刀をよける実践を真剣による演武で見せてくれたりしました。

実践的なことがわかると立ち回りをするときに、人を傷つけたり、殺したりということが、完全とはいかないまでもかなり実感が伴うようになりますね。真実味が増します。

今でもはっきり覚えているのは切腹の作法。打ち首との違いもよくわかりましたね。怖かったですよ~

在籍中はヒーローショーが毎週末あって、大したお金にはなりませんでしたが、学生でしたので気にすることも無く、楽しかったですね。

あとはいわゆるエキストラのお仕事。

その中で良かったのが「燃えろアタック」の敵チーム役。バレーボールができる子がいなかったため(私も趣味程度ですが)サーブのシーンは全部私。結構アップで撮られたので、友達にすごい!と言われました。

この時主役チームが負け、後日リベンジの回でまた呼ばれたので、準レギュラー?気分も味わいました。

あとは小林旭さんが主役の時代劇で、殺人尼集団が出てくる回があり、その当時殺陣のできる女子が少なくていろんなところから1人2人と集められ、私も参加することができました。

この時も(恐らく)私が1番上手で(ほんとか?)、いつも先頭で刀を振っていました。

ただ、全く違う流派?の殺陣師だったせいか、私だけ散々怒られましたね。

敵がゆっくりこちらに向かって歩いてくるところを後ずさりしていると「早く下がれ!」

早く下がると(相手はゆっくりなので離れ…)「間を空けるな!」

リハ中で大道具さんが準備しているので後ろを気にすると「後ろを見るな!」

最後には大道具さんの脚立に激突してしまいました。

まあ、今となってはいい思い出です。仕事があっただけ幸せです。

男の人はそういった小さなものでもいろいろ仕事はありましたが、女子はあまりありません。「御用だ!」って言ってる女の人、見たことないでしょう?

女子は役をもらわないとなかなか仕事になりません。

日本舞踊を始める

高校を卒業するころ、遅ればせながら、演技もちゃんと勉強しようと演劇学校に入ります。

同時に事務所に所属。その時お世話になった方の奥様が日本舞踊を教えてらして、「女優さんはみんなやってるよ」と言われ、入門することに。

珠煌ブログでも書いていますが、アクションでかなりハードなことをやってきたので、日舞なんて簡単、と思っていました。

ところがどっこい、です。腰の入れ方は問題ないし振りも早く覚えられるのですが、どう動いても明らかに先生と違う。

これはのめりこみましたね。アクションで培った集中力が大いに役に立ったと思います。

3年後、アクションはやめ、女優も諦めました。見切りと言えばそうなのですが、13歳からずっとテンションマックスでやってきて燃え尽きてしまった、という状態だったのです。演技したくても気持ちが乗らない、出来ていないことが自分でもよくわかってつらかったです。

一方日舞では、演技ができていなくても許されて、それもつらかったのですが、何もなくなるのが怖かったのか、踊りはやめませんでした。今思うと無感動症とも言える状態で、笑えない、泣けない時期を3年ほど過ごしました。

やっと気持ちが上向いてきたころ、先生から名前を取らないかと(名取試験を受けるということ)言われます。

私は1年間バイトをしまくり、お金をためて名取試験を受けました。金額を言うと知らない方はひいてしまうと思うので言いませんが、それでも足りなくて、親に少し出してもらいました。

日本舞踊の舞台はお金がかかります。衣装からかつら、後見、大道具、地方(演奏者)、もちろんホール使用料など全部自分で負担します。親がそうそう味方であったわけではないので、なかなかできない。舞台に立つ経験を何とか沢山持ちたい、と思いました。

気持ちも上向き、今なら演技ができるかも…と思い切って舞台のオーデイションを受けました。

千翠珠煌、時代劇に出る

野外劇を得意としていた劇団。時代劇、というのもいいかも、とまるで内情をわかっていないのに飛び込んでしまいました。

壊す前のサウナ施設のビルを借り、13日間連続公演。13回もタダで舞台に立てるってすごい!ってなもんです。

とてもハードで、毎日稽古に通うのが苦痛で苦痛で、稽古場まで坂を上るんですが、いつ足を止めよう、足が止まれば終わる、と思いつつ何とか踏ん張っていました。

苦しみのピークはいつだったか、小屋入りしたころには苦痛を通り越してエネルギーが全開状態になり、帰りは駅まで走って帰ったりしてましたね。食べてもすぐお腹がすくし、腹から笑えるし、全身の毛穴が全開して体中滞るところが何一つ無いっていうか本当に気持ちのいい状態。すごーく楽しかったです。

後にも先にもこんな状態は味わったことがありません。

舞台も、日舞、殺陣、三味線などすべてが役に立ち、自分が興味を持ってやってきたことがこういうことだったのだ、と再認識できました。

あ、書き忘れましたが、名取になる少し前から長唄三味線も始めました。名取披露が生演奏で、レコードと違う演奏に苦労しそうだったからです。

3年間でしたが、耳も鍛えられることが分かったことは収穫でしたね。

耳って聞こえるものだと思っていましたが、すごく聞こえる、というか聞き分けられるようになるんです。

三味線の糸は絹糸で、伸び縮みします。撥で当てることで響き、はじく音、表皮にあたる音など色んな音がするため、調弦が難しいのです。

3年目に聞き分けられるようになったときは本当に嬉しかったです。

よく五感を磨くといいますが、耳が良くなることでこんなに変わるのかと驚きました。

振りの覚えも早くなりましたし、音楽も色んな音が聞こえるようになったので、イメージがより膨らむというか、創作にも良い影響が出たと思います。

就職しよう!

踊りを始めて10年もたつ頃、師範の免状を頂きました。資格を取るようなつもりで。

でも、先生は師範を勧めつつ、就職した方がいいといいます。結婚していなかった私を心配し、また収入が無いと踊りも続けられないと思ってくれたのだと思います。

「こんなの見つけたわよ!」どこからか先生が体育指導員(スポーツインストラクター)募集のチラシを持ってきてくれました。

身体を使う仕事の方が良いかも、と深く考えもせず面接。すんなりと入社が決まりました。

トレーニングジムで器具の使い方、エアロビクス、ストレッチ、目的別運動プログラム作成などなど。

まだまだ新しい仕事で、スイミングスクールがだんだんトレーニングジムへと拡大しようとする少し前くらい?でした。

トレーニング器具の販売と公共の体育館への指導員の派遣など。

アクションでかなり無茶なことをしてきたので、理論的に体の事や、トレーニングの方法、ケアの仕方、そして指導など踊りを教えたり自分の身体のケアなどに役立つことばかり教わることができて、とても良い経験になりました。

まあ、それからすぐに思いがけず結婚が決まり、結局アルバイトとして働いたのですが…

一方師範の免許を頂いて、すぐに看板を出しましたが、このころにはもう近所の人が看板を見て集まってくるような状態ではありませんでしたね。カルチャーセンターなども出てきましたし。

千翠珠煌、中国舞踊にはまる

私はお弟子さんを増やすことより、もっと体を自由に動かせるようになりたいという自分への意識の方が強く、バレエかな、と漠然と思っていました。

しかしレオタードはいかがなものか…。

そこで偶然カルチャースクールの案内に掲載された、素敵な舞姿の女性に目が行きました。写真だけでも十分彼女の技術が素晴らしいことはわかりました。中国舞踊です。

しなやかな体、全身から沸き立つ香りにも似た表現、是非彼女に習いたい、とスクールに申し込みました。

柔軟性はかないませんが、全身がつながっていき、体の中心から波打つように末端まで動く感覚が気持ちよく、それが心からの表現を体に伝えることにつながっていきました。

この体験はのちの創作に非常に影響を受けたと思います。

身体訓練としても、大きく動くことで、体幹から動くことを覚えやすい。弟子に教える時もそのあたりを意識するようにしています。

中国舞踊は先生が帰国するまで3年間教わりました。

 

創作舞踊公演開始!

その間に、初めての舞踊公演もしました。

日舞を気軽に見てもらえる公演、そして踊る側としてはお金をかけずに私なりの流派への貢献の形となれば、との思いで開催したのです。

創作は中国舞踊の影響をかなり受けたものになりました。

普通の日舞の技術を用いた振付も半分はありましたよ。

でも家元先生にも周囲にもいい顔はされませんでした。

家元の振り付けでは無いこと、小さなホールで開催したこと、流派の会に出ないこと。

このあと、一切創作を発表せず、教わる振りだけを踊り、お弟子さんとのおさらい会だけをつつましく行い、再び笑えない、泣けない日々を何年か過ごし、文字通り踊らされるだけの生活に限界が来て、流派をやめることになりました。

再び踊る日が

流派をやめると待っていたようにすぐ妊娠しました。

子供が歩けるようになるくらいまで、一切踊っていませんでした。

もう踊らないかも、と思っていたのに娘がテレビなどで音楽が鳴ると踊りだすように。

私が踊ると真似するようになります。

お隣さんが新築して小さいホールができて、ここなら一人で無理なく踊れるかも、と思ってしまいました。

満席になると会場を広くして、3回目は80人ほど入るホールで娘も踊らせてミニ舞踊公演を開催しました。

流派をやめているので、全部自分の振り付け。

公園で知り合ったママ友から教えて、などと言われてお稽古を再開。教える為にも振付をするようになり、子供舞踊は成長に合わせてどんどん増え、50曲以上に。

もう少しでできる、もっと楽しいの!、子供達の個性を生かしたり、気持ちを乗せてあげたり、本当に楽しかった。

私は基本、人を踊らせるのが好きだ。判っていたはずなんですが本当に実感し、人を育てる側になろう、踊りの舞台全体を作る人になろう、と決心できたのはごく最近の事です。

上の写真は、舞踊公演の4回目、初めて250人収容の(私としては)大きな舞台での開催です。

子供達が3曲、私が様々な趣の違う6曲を一人で踊り、100人弱のお客様に来ていただきました。

ここを満席にするまで毎年開催し、次のステップへ…、成長していきたい、と思っていました。

ところが、次の年私は病気のため入院、手術もすることに。その後治療などもあり、1年は何もできませんでした。

お稽古と小さなおさらい会は何とかしていましたが、公演をするような気力も体力もありません。

ママ友つながりで、子供のお弟子さんは増えたりして、それはそれで楽しかったのですが、舞台公演を一人で企画するというのはなかなか難しかったです。

すべての経験が生きる

今はもう解散してしまいましたが、日本創作舞踊振興会という団体があり、様々な流派の方が創作日舞を発表される場が提供されていました。

私も個人名で出演させてもらえることに。毎年1曲披露するくらいなら良いかも、と思いました。沢山の方に見てもらえますし、他の舞踊家さんとも知り合えます。

まあでもその中でもちょっと私は異色だったかもです。

津軽三味線の上妻宏光さんの「夕立」、葉加瀬太郎さんの「白鳥の湖」など。

でもわかりました。私の学んできた流派は、古典と共に創作日舞を3代にわたって作り上げてきているのです。その上に私の少しの工夫があるだけでかなりぶっ飛んだものになっているのかもしれない、と思うのです。

古典は、変わらないのではなく、数えきれない人たちの工夫、考え技術の積みあがって成長して今があると思います。創作舞踊はなかなかそこまで積みあがっていない。その分私はラッキーだったと思うのです。

新しいことをやろうとすれば、失敗もあります。それも含めて3代の長きにかけて積みあがってきたもの。それを思いがけず私は受け取り、自分のものを積み上げていける。とても幸せなことだと気が付いたのです。

あるとき、坂本冬美さんの「アジアの海賊」に出会い、”この曲で棒を振りたいな…”と思いました。

アクションはもう二度とやらないと思っていました。

上手くできる自信も無かったのですが、いざやってみると”現役でやってた時よりいいよ”と当時を知る主人からお褒めの言葉が。

ああ、アクションも無駄ではなかった、と嬉しかったです。

下の写真は箏奏者の中井智哉さん作曲の「革命の序曲」。絡みがいなくて刀を振るのはできる手が限られて難しいのですが、我ながらよくできていると思います。欲を言えば、もっと刀とお扇子がうまく絡めればよかったな、とは思いますが。

動画が当HPの実演の様子にも載っていますし、YouTube(千翠流舞)にもアップされていますので、是非ご覧ください。

今できることを。と、いつもやってきたと思います。

沢山いた子供たちも部活や受験など様々なことがあり、それでも残って成長してくれた弟子たちがいて。

これからもっといろんな世界を見せてあげたい。もっと高みに上ったら、どんな世界が見えるのか。

その為にも仲間を増やしたいし、私自身も成長して皆を導きたい。

今年2020千舞祭は私のけがのため、若手だけでショーを開催しました。

ちょっと心配でしたが、杞憂に終わりました。私がいなくても十分素敵なショーになったのです。

教え続ける為にも、自身の鍛錬は続けますし、踊るつもりですが、これで私の道がはっきりしました。

振付、演出、指導、日舞を通してあらゆる場を創造する、日舞クリエーターを名乗れる…かな?

💮千翠珠煌主催の日本舞踊教室では、無料体験レッスンを 千翠流舞ではワークショップを開催しています。

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